2012/06/29

[カウントダウン企画]開幕まであと20日



「千に砕け散る空の星」ロンドンでの初演時に
イギリスのガーディアン紙に掲載された特集記事をご紹介します。



『千の星』世界の終わりのショー
A Thousand Stars' end of the world show

一本の戯曲に三人の作家というのは可能だろうか?
可能だとリン・ガードナーは見る。
必要なのはペンと一巻きの壁紙──そして世界の終末だけだ。
リン・ガードナー


あなたならどうする、土曜日に世界が終わるとしたら?


本当の終わりだ。つまり打つ手はない。
科学者にも政府にも一匹狼のヒーローにも終末を防ぐことはできない。
それが『千に砕け散る空の星』の出発点だ。
一人ではなく、乗りに乗った三人の作家が共作するという珍しい新作劇である。


デヴィッド・エルドリッジ、ロバート・ホルマン、サイモン・スティーヴンズ共作
『千の星』は年の大きく離れた五人兄弟に焦点を当てた劇だ。


世界の終わりが近づくにつれ、彼らは家族の秘密を明らかにせずにはいられなくなり、
行方不明の兄弟とばったり出くわし、最後には全員が集まって過去の傷や誤解を水に流す。
「たとえ世界が終わりに直面しても、
みんなじゃんじゃんレイプして略奪してというふうにはならないんじゃないか、
そういう考えを三人が共有していたところから書き始めました」
とスティーヴンズは言う。


現在売れっ子のスティーヴンには
ロンドン、ブライトン、ドイツでの新作同時オープンが控えている。
「僕たちなら単純に自分の愛している人間と過ごしたいと思うでしょう。」
「たしかに」とホルマンは言う。
最近の三十年間で最も過小評価された戯曲のいくつかは彼の作である。
戦争と暴力を描いた人間味のある秀作『静かに騒ぐ』もその一つだ。


「三人とも家族というものを信じているんです。
家族がどんなに不完全なものであろうとです。これは愛を描いたお芝居です。
家族のなかで愛が何を意味するかということ。もしかすると何か単純な、
丘の上に座ってチーズを分け合うというようなことかもしれません。
「しかも気の滅入るようなお芝居ではまったくありません」とエルドリッジがつけ加える。
彼は『青い空の下』、『マーケットボーイ』、家族の危機を描いた
ドグマ映画の強烈な脚色『フェステン』を手掛けている。
「終わりと向き合うということなんです。しかもうつむくのではなく、見上げるんです。」


『千の星』は今週ロンドンで初日を迎えるが、創作の始まりは2003年、
津波やハリケーン・カトリーナ、アイスランドの火山噴火といった自然災害により
私たちが人間の脆さを思い知らされる前のことだ。
どのようにして始まった話なのだろう?
「前々から仲よしでしたから」とサイモンは言う、
「お互いに挑戦し合おうということになったんです。
課題は、それぞれいままでこわくて書けなかったもの、
あまりにも直接的で個人的なことを書くということでした。」


劇作家の共同作業は新しいことではない。シェイクスピアにも共作はある。
が、普通は二人で一本の戯曲が限界だろう。
このトリオには互いに共通するものが多くあるとはいえ、三人べつべつの作家、
それぞれまったく異なる書き方をする作家である。問題はなかったのだろうか?
「いい意味で闘いはありました」とスティーヴンズは言う。
「お互い徹底的にやり合ったこともあります。」
「でも」とホルマンは言う、
「最悪の一日でも、最後には必ず三人でパブへ出かけました。」
「この作品はお互いの愛情の産物なんです」とスティーヴンズがつけ加える。
「でもそれはタフな愛情です。本当の愛情というのはそういうもんです。」


ナショナルシアター・スタジオで二週間共に過ごし、
それぞれ興味をもった音楽や写真をすこしずつ持ち寄って、作業を前へ進めていった。
そのあいだ、三人で一本のブルーのペンと一巻きの壁紙を共有し、書いていった。
自分たちの書いていた登場人物にこう言わせたい、こうさせたいと、
ときにはペンを取り合いにもなったが、たいていはそれぞれが場面をつくり出し、
それを次の作家に回して書き改めるという具合だった。
最終段階では三人のうち一人が(それが誰なのかは教えてもらえなかったが)
草稿を書き、自由裁量で変更を加えることができた。
その草稿が次の作家に手渡され、同じプロセスが繰り返された。


内容によっては非常に私的なことがらもあったので、
このプロセスは必然的に数々の混乱を引き起こした。あるときホルマンは、
それまで書いたことがないほど個人的な一節に変更が加えられたのを見つけた。
「座り込んで自問しました、
どうしてこんなにつらいことをしなきゃならないんだろうって。
その痛みや悲しみを乗り越えるのにずいぶんかかりました。
素晴らしい変更だと気がついたのはしばらく経ってからです。」


結果として作品は、スティーヴンズが言うに、まちがいなく三人全員のものになった。
「でも足して三で割ったようなものではありません」とエルドリッジが即座につけ加える。
「三人の声を足したものよりも大きなものにしたいと僕らは思ってたんです。」


劇場探しにはしばらくかかった。なにしろ資金に加えて勇気がなければ、
十一人の俳優と一匹の犬が必要な劇は上演できない。
そしてもちろん世界の終わりを舞台に載せる腕も必要だ。
この物語では、世界の終わりは人間が招くものではない。
量子物理学に起源をもつ終わりである。ここで興味深いのは、
劇に教訓的な重みが与えられることはないという点だ。
苦悩をあらわにするとか、誰かを非難するということはない。
ただ世界の終わりを迎えるために家族が集まるだけである。

「曖昧で隠喩的な、詩的なものなんです。
いまどきそういう演劇は流行ってませんが」とスティーヴンズは言う。
「9/11以来」とエルドリッジがつけ加える、
「演劇はより逐語的で実利的なものになっています。
頭で考えるものや政治的な議論の場はたくさんありましたが、
深いメタファーでじわじわ表現するような作品に場が与えられることはほとんど、
あるいはまったくなかったんです。」


そしていま、
三人の作家が一つのヴィジョンと一本のペンと一巻きの壁紙を共有してくれたおかげで、
そういう演劇が返り咲くのだ。

(ガーディアン紙 2010年5月10日)
訳:広田敦郎